かこ diary

還暦からの『日々是好日』を探しています。

「排泄」には整理と覚悟が必要なのよと思い知った話

前回のブログは 1/11 。 その時は、ざっくりと要らぬものは「排泄」とした。

けれど、”そうは問屋が卸さぬ”と翌日AM9:00に思い知った。

「排泄」を必要とした主役である叔母から、10年ぶりぐらいの電話があった。

電話をおえた直後から、自分が自覚していない記憶までが写真のスライドのように次々と目の前に現れ続けた。。2週間ぐらいは続いただろうか。

 

最近SNSで「自己愛性パーソナリティ障害=NPD」という精神の分類を知ることができた。私は大人になってから、叔母の精神構造には強い特徴があるのではと考えるようになった。”脳科学”という言葉も一般的になり、インターネットの普及で、ASDADHDサイコパス等々手軽にその特徴を調べることも出来るようになったが、どれも一部は合うがピッタリと思う症例になかなか出会えず、あの精神構造は叔母独自のものかしら?と思い始めたところへ、正しく!ぴったり!と説明が付く症例が、

『自己愛性パーソナリティ障害』 であった。

 

少し叔母の様子を並べると

・自分は正しく、美しく、優秀で、誰よりも秀でた人間であると周りにアピールすることが非常に上手い。

・自分は動かずに、巧みな言葉で他者を都合の良いように動かせる優秀さをもった、特別な人間であると自覚している。

・言動の特徴として、自分は常に被害者で悲劇のヒロインであり、周りは自分に味方するのが当然と思っている。

・自分以外の他者を批判し、もっともらしく評価を落とすことに喜びを感じている。

 

私の叔母との関わりは、

私は父方、母方どちらからみても初孫。2歳づつ年下に弟、妹がいる。
叔母は私の実父の妹。父方の祖父母は私が生まれるだいぶ前に亡くなっていて、そのせいか私の父は叔母の言う殆どのことに反対しない人だった。そのため一般的常識と離れたことを叔母が言い出しても、それを止める人がいなかった。そのような環境で、私は小学校低学年の3年間、家族と離れて独身の叔母と二人で暮らすことになり(今だからわかる私を引き取った目的は、叔母が当時お付き合いしている人と別れるための緩衝材。なぜなら結婚したい他の男性が現れたから。)

叔母は結婚することになり、私は小学4年になるタイミングで実家に戻ったが、その後数年で結婚生活に飽きてしまった叔母は、高校入学のタイミングで私を養女というかたちで、また緩和材の役目を私に課した。

小学生の時の叔母の説得セリフは「あなたの母親では、あなたを含めた子供3人は育てられない」(実際、その時の実母は幼稚園児の私から見てもとても疲弊していた)。そして、養女になった時の説得は「子供3人の教育費は実の両親に負担がかかりすぎる」というものだった。

成長し振り返れば、叔母の本当の意図がよく見えるのだけれど、説得されたときは言葉の通り受け取ってしまった。

叔母との生活は殆ど放置だったように思う。生活費は十分に与えられ、大学にも通わせてもらったのだからそれだけで有難いことだけれども、高校からは叔母は家にいることも少なく共に生活をした実感は無い。

私は社会人一年目から、叔母の考えで、叔母がやっている飲食業につくことになった。バブルがスタートする時期と同じだったために、世間知らずのど素人でもそれなりの仕事をさせてもらったが、叔母はそう思っていないが叔母の事業のマイナスの補填とバブルの崩壊とともに事業を全て終わらせ、私は戸籍も単独の自分だけの戸籍にした。

その後、私はいくつかの会社に雇われながら仕事を続け、叔母はそのあと他の方と2度目の結婚をしてくれて少し落ちついた。私も40半ばで結婚して暫くは少し穏やかな時間を過ごせたが、叔母の2度目の結婚相手の方が無くなってからまた、私への心身ともにの叔母の搾取がはじまった。

いつでも、どのような事でも叔母の要望に応えるのが当たり前になっている自分。言葉巧みに、こちらの心臓が血を流すような批判を受け取ってしまう自分。これらを手放さなければならないのは明白。

それには今まで表に出してこなかった諸々を、形は歪でも表に出して、痛みや苦しみまで執着し持ち続けていたそれらを、明るいところに出して整理整頓しなければ、その先の排泄廃棄にいたることは出来ないのだと覚悟した。

少しは踏み出せたと信じたい。自分を生きなければね。

 

今日もありがとう。

明日もよろしく。

 

yawarakayoshi