かこ diary

還暦からの『日々是好日』を探しています。

いまさらだけど『習慣』をあらためる

 還暦を迎え、やばい!とおもう習慣をいまだにいくつか持っている。

 

①睡眠習慣

叔母と暮らした小学校低学年の3年間、今思えばその頃の流行りだったのかもしれないが、叔母は「私は今日も3時間しか寝ていないの!」というのが、毎日だった。長時間睡眠を貪ることは下等なことだと力説していた。これは暗に私の実母を非難する言葉でもあった。当時母はバセドウ病を患い、睡眠が必要だったのだけれど。

小学校低学年の私を、夜中に起こして鮨屋に連れていくことも当たり前だったけれど叔母自身は「私は二十歳まで生きられないと言われたほど身体が弱いのよ。」と言ってよく昼寝をしていた。私自身は、昼寝をすると頭痛がして昼寝のできない子供だった。

その後、高校から20代後半まで叔母との関わりが深かったが、その間の様々な出来事で、夜布団に入り部屋を暗くすると、交感神経がより有利になり入眠することが出来ず、一時期は電気をつけたままでないと寝られない癖がついてしまい、さらに気絶するように入眠できるまで寝ないようにする習慣が50代後半まで続いた。

もちろん心身ともに良いパフォーマンスが出るはずもないが、それが私の実力で、能力の低さを我慢を重ねることでしか補えないと思っていた。

 しかし!還暦を迎え、老化という事実に直面したところで少し目が覚めた。

 このままでは、うっかり長生きしたら”ボケ”るぞと。

睡眠不足の認知症リスクは近年当たり前に云われているし、日常のQOLが下がることも当然指摘されている。私は「人生終える時まで自立した生活をしていたい」というのが大切な望みなので、睡眠習慣の見直し改善に取り組まねばと覚悟した。

先ずは毎日の7~8時間の睡眠を当たり前にする環境をつくってしまう。それから睡眠自体の質の向上に取り組む。

今までの不の遺産は身体に残っているだろうけれど、せっかく気が付いたのだから、できる限り実行すれば自分自身を納得させることも出来るだろうと思う。。

 

②自分の思考の整理

叔母の思考言動は「自己愛性パーソナリティ障害(今後NPDと表示)」であると確信できて、やっと自分の思考の整理に舵を切ることができたと思う。

これまでいくつかの企業や組織で仕事をさせてもらってきたが、その先々でNPDの人に出会い私はターゲットにされてきた。出会うNPDの人達の発する共通の言葉「〇〇は私のことを凄く気にする」「かってに(目立つこと)している」など、叔母も含めて関係性が全くない人たちが同じ言葉を私に投げかける。その人たちが興奮しテンションが高まると、同じ手の動き、同じ表情になる。というのを見てきた。

赤の他人でこれだけの共通する言動をみてしまうと、おそらく脳に特異な特徴があるのではと思うようになったが、それが何なのか解明できなかった。ASDADHDなど一部は合致してもピッタリと思えるものは無かったが、NPDの特徴で腑に落ちた。

だけれど人の特性は、人それぞれ幾重にもグラデーションになっているものとも思っているので、NPDの特性が顕著になるのは私にそうさせる何かがあるのでは?と考えたこともあった。それはそう外れたことでもなくて、私がターゲット気質(相手に合わせるのが当たり前な思考)を持っていたためであった。

幸か不幸か、赤の他人のNPDに攻撃されることで気が付けた。それにつきあう義務も義理も無いことに。そして、叔母との関係性もそこから徐々に冷静に整理できるようになってきた。

 そう自分の思考は自分のもの。自分軸で整理する。

 

③片付け食いはしない

叔母は大病も経験し常に病院通いを欠かさない、自分の食の細さを常にアピールする人であったが、目が欲しがるので出かけた先の食事処で色々注文してしまう。私も子供の頃は小食で、牛乳と全くの白飯以外は好んで食したいと思わなかったが、目の前に叔母が好きなようにつついた料理が残ってしまうので、その残り物を頑張って食べるというのが小学生の頃から当たり前になってしまった。その習慣が今も残っている。

片付け食いの何がダメかというと、栄養バランスがおろそかになること。年齢が何歳であっても、人間は食べたものが身体になることを自覚しおろそかにしてはならない。

 今、口にするものが身体になると思いながら食事をすべし!です。

 

 まだまだ変えていきたい習慣はあるけれど、先ずはこの3つから取り組む。

 永いことかけて染みついたものだから、たやすいものでもない。

 気が付いたのだからやりましょう。

 

今日もありがとう。

明日もよろしく。

 

yawarakayoshi

 

自分のやっかいな『癖』をならべてみる

①自分の意志よりまわりにあわせる 

私は子供がいない環境に生まれた。よって、大人の都合に合わせることが当たり前の子供に育った。特に、自己愛性パーソナリティ障害の気質が強い叔母との関係の中で、大人への”忖度”が得意な子供であった。

小学校低学年の3年間、叔母と二人で暮らしていた。年に3回ほど叔母の都合で、親戚に1~2週間預けられることがあった。いつもは徒歩10分の小学校へは一時間半ほどかけて電車でかよった。預けられるその家は小さな商店を営み1階が店舗、2階が住まいになっていて、お風呂は銭湯を利用していた。銭湯へは一人で通っていたが、その時忘れられない大きな気づきがあった。

今の銭湯といえば娯楽の要素が強いが、風呂なしアパートの多かった時代でもあり当時の銭湯は生活の一部としての要素が強かったように思う。なので、マナーや常識は必須の場所であった。

そこでチビの私は洗い場で隣のお姉さん(推定二十歳)の石鹸を落としてしまった。あわてて拾い上げ、お返しするとき私は言葉が出てこなかった。その色の白い華奢なお姉さんは静かで確りとした声で「こういう時は、ごめんなさいというのよ。」と言ってくれた。私は、ごめんなさいと頭をさげた。お姉さんは「大丈夫。」と答えてくれた。

その時気が付いたのは叔母や実母や実父は、日常の世の中の常識を私に伝えてはくれない、自分で気づき学ばねばということ。これは大人たちを非難するつもりは全く無く、なぜなら大人たちはとても忙しく、それは生活する生きていくのに必須の事で、私の存在は大人の邪魔になってはいけないというのがあったから。悪影響ばかりではないけれど、これで大人の動向を観察することが強化された。

 意識すべきは、事実と、それぞれの人が思う真実を、わけて考える思考。

 

②自分の意識を自分で認識しずらい

小学校に入って最初の作文、叔母が愉快そうに笑ったことの内容を題材にした。たまたま担任教諭が気に入りそれをクラスで読み上げた。それが人づてに叔母の耳に入り、叔母が髪を振乱して激怒した。プライベートをさらしたからと。それからだと思うのだが、私は自分で書き記したものを読み返すことが難しい。学校で必要な作業として、ノートづくりや卒業論文まで書くことは出来るが、それを読返すことをことが難しい。試験の当日までノートを友人に貸していても文句を言わないと重宝された。自分の試験勉強は教科書などを読返すことぐらい。自分の頭の中を整理したであろうノートは、書いた時の記憶をたどることぐらいだった。

大人になり、ノート術やマインドマップやら書籍をいくつも買い求め試してみるが、提出義務のあるものは書けるがそれを読返すことが出来ない。自分の頭の中の整理にと、手帳術をためしても最初のうちは作業的に書き進められるが、そのうちその手帳を開くことが出来なくなる。。

若いうちは勉強が嫌いな自分の特徴と思っていたが、いや、これは何かの恐れからくる症状ではと疑いだした。

頭の中でただ思考をグルグルさせているだけでは、壊れた洗濯機のようで、いつまでも洗濯物はきれいにならないと気が付いた。

 

③自分の望みが曖昧

子供のころから神社仏閣に手を合わせるとき自らのことは何も思い浮かばず、なんとなく「世界平和」を祈っていた。それを間違いとは思わないが、違和感は感じていた。

私の実の両親は目鼻立ちがはっきりしていて、弟や妹も小さい時から可愛らしい顔立ちだが、私は色は白いが腫れぼったい目、鼻の穴が正面から見える剛毛短髪の子豚顔。祖母はその頃あった、産院での新生児取り違えをだいぶ長い間疑っていて、小学校に入ってから徐々に目が二重になり、兄弟で並んでもおかしくない頃まで疑っていたと言っていた。叔母には毎日「子豚ちゃん」「おぶすチャン」といわれ自分でもそう思っていた。幼いころはスカートを穿いていても男子と見られ、16歳でもジーパンTシャツでは接客のプロにすら「立派なご子息様で」といわれ、女子として意識は薄かった。

実父が18歳で亡くなってから実母からあなたがお父さんと言われ、心優しい弟だけれど思春期に感情を持て余らせたときは怒鳴りつける役目をした。

16歳まで男子に間違えられていたのに、大学に入り校則もないので髪の毛を伸ばし放題にして多少の化粧をしたら、急に老けてみられるようになった。大学のクラス呑み会ではお店の定員さんが迷いなく、私の席に伝票をおいた。学びも経験も足りなすぎるにも関わらず、まわりからは大人として見られ、働きや役割が当然のように割当てられ、何とか実行するようになっていった。自己愛性パーソナリティ障害の叔母が、自ら離れていくまで(叔母自らが主役になりずらいほどに)必要と望まれることを実行してきた。さて、自分の望みは?と思ったら何も思いつかなかった。

還暦になり、「生涯自立」でいたい。と思った。他には思いつかないけど、それでいいと感謝した。

 

④他者の事にはすぐ動けるのに、自分だけの事には動けない

小学一年の頃、商売をしている叔母は夜仕事があるために私は一人で家にいた。夕方に食事を済ませ、叔母は仕事にでかける。私は本を読んだりテレビを観たりして、8時ころにはベッドに入っていたが、時には淋しさのために実家に電話をかけた。実家への電話のかけ方は、叔母が教えてくれたことだった。しかし、電話料金をみて頻繁に電話をかけていると知って、当時お付き合いをしている男性に叱られることとなった。

8畳間の上座に男性と叔母が並んで座り、私は下座の端に正座して座った。叔母は悲しそうに男性にしなだれかかり、その風景をテレビで見る時代劇のようだと記憶している。ひとしきり男性が、実母に頼る私の行動を叔母が寂しく感じるであろうこと、それを配慮できない私の愚かさを大きな良く通る声で私に言い聞かせ、最後に「はい!は」と私に有無を言わさず従うように話を締めくくった。

小学校低学年の3年間、近所に同級生が住んでいなかったこともあり、学校を終えてから遊ぶ友人はあまりいなかった。唯一家から少し離れたところの商店の娘さんがいて、何度か家を行き来したのだが、言葉が江戸弁のべらんめい調で私はカッコいい!と思ったが、叔母は下品だからと遊ぶことを禁じた。何度か誘いを断ると、誘われることも無くなった。

一人でいることが得意になってしまった子供は、たまにある他者との関わりには全て応えようとすることも得意になってしまった。それが叔母からの要望ばかりだったとしても。なので、叔母に限らず家族親族の何かには、早く行動すると評されるようになった。自分の「望み」は我儘・贅沢と考えるようになり薄く薄くなっていった。

還暦を迎えた現在、自分の「望み」は「生きること」に近いものと感じる。脳の中で拒絶的な反応を自覚するが、だましだましでも動いていかなければね。

 

⑤褒められたことを身体が否定する

10歳の頃、虫歯の治療のため歯医者に通った。初診から一人で通っていたために、待っている時間を持て余し、掲示しているポスターや冊子を繰返し読んでいた。お陰で一本の虫歯の治療を終える頃には、とても歯磨きが上手になっていたらしい。その年の小学校の健康診断で、歯の検診を受けたドクターにとても歯磨きが上手と褒められた。それを訊いていた教師にもその時皆の前で褒められた。それから朝夕の歯磨きの時に、自分の歯ブラシを持つのが嫌になった。歯磨きをしないのは気持ち悪いので、それまで触りたくもない(思春期にはいっていたから?)と思っていた父の歯ブラシで歯を磨くようになった。母に「汚いからやめなさい。」と云われるまで一か月ほど続いたと思う。

他にもいくつか同じようなエピソードを記憶しているが、それは私のいい加減な性格からくるものだと思っていたが、思い返すとそれだけではないかもしれない。

他者からの評価は、事実に即して適切なものもあれば、そうでないものもあることはわかってきた。評価というものを否定することではないけれど、自分を考えるにはそれは二次的三次的なもので、まるっと受け入れることも、肯定否定することも、しなくてもよいのだと自分の無意識に云い続けてあげようと思う。

 

先ずは、大まかな思考癖をならべた。

癖を解く入口くらいには立てたと思う。

まだアウトラインがボンヤリしている。

何もかも彩度の高いものにする必要はないかもしれないが、

自分の視界は、深呼吸して見渡せる景色にしていきたい。

 

今日もありがとう。

あしたもよろしく。

 

yawarakayoshi

 

「排泄」には整理と覚悟が必要なのよと思い知った話

前回のブログは 1/11 。 その時は、ざっくりと要らぬものは「排泄」とした。

けれど、”そうは問屋が卸さぬ”と翌日AM9:00に思い知った。

「排泄」を必要とした主役である叔母から、10年ぶりぐらいの電話があった。

電話をおえた直後から、自分が自覚していない記憶までが写真のスライドのように次々と目の前に現れ続けた。。2週間ぐらいは続いただろうか。

 

最近SNSで「自己愛性パーソナリティ障害=NPD」という精神の分類を知ることができた。私は大人になってから、叔母の精神構造には強い特徴があるのではと考えるようになった。”脳科学”という言葉も一般的になり、インターネットの普及で、ASDADHDサイコパス等々手軽にその特徴を調べることも出来るようになったが、どれも一部は合うがピッタリと思う症例になかなか出会えず、あの精神構造は叔母独自のものかしら?と思い始めたところへ、正しく!ぴったり!と説明が付く症例が、

『自己愛性パーソナリティ障害』 であった。

 

少し叔母の様子を並べると

・自分は正しく、美しく、優秀で、誰よりも秀でた人間であると周りにアピールすることが非常に上手い。

・自分は動かずに、巧みな言葉で他者を都合の良いように動かせる優秀さをもった、特別な人間であると自覚している。

・言動の特徴として、自分は常に被害者で悲劇のヒロインであり、周りは自分に味方するのが当然と思っている。

・自分以外の他者を批判し、もっともらしく評価を落とすことに喜びを感じている。

 

私の叔母との関わりは、

私は父方、母方どちらからみても初孫。2歳づつ年下に弟、妹がいる。
叔母は私の実父の妹。父方の祖父母は私が生まれるだいぶ前に亡くなっていて、そのせいか私の父は叔母の言う殆どのことに反対しない人だった。そのため一般的常識と離れたことを叔母が言い出しても、それを止める人がいなかった。そのような環境で、私は小学校低学年の3年間、家族と離れて独身の叔母と二人で暮らすことになり(今だからわかる私を引き取った目的は、叔母が当時お付き合いしている人と別れるための緩衝材。なぜなら結婚したい他の男性が現れたから。)

叔母は結婚することになり、私は小学4年になるタイミングで実家に戻ったが、その後数年で結婚生活に飽きてしまった叔母は、高校入学のタイミングで私を養女というかたちで、また緩和材の役目を私に課した。

小学生の時の叔母の説得セリフは「あなたの母親では、あなたを含めた子供3人は育てられない」(実際、その時の実母は幼稚園児の私から見てもとても疲弊していた)。そして、養女になった時の説得は「子供3人の教育費は実の両親に負担がかかりすぎる」というものだった。

成長し振り返れば、叔母の本当の意図がよく見えるのだけれど、説得されたときは言葉の通り受け取ってしまった。

叔母との生活は殆ど放置だったように思う。生活費は十分に与えられ、大学にも通わせてもらったのだからそれだけで有難いことだけれども、高校からは叔母は家にいることも少なく共に生活をした実感は無い。

私は社会人一年目から、叔母の考えで、叔母がやっている飲食業につくことになった。バブルがスタートする時期と同じだったために、世間知らずのど素人でもそれなりの仕事をさせてもらったが、叔母はそう思っていないが叔母の事業のマイナスの補填とバブルの崩壊とともに事業を全て終わらせ、私は戸籍も単独の自分だけの戸籍にした。

その後、私はいくつかの会社に雇われながら仕事を続け、叔母はそのあと他の方と2度目の結婚をしてくれて少し落ちついた。私も40半ばで結婚して暫くは少し穏やかな時間を過ごせたが、叔母の2度目の結婚相手の方が無くなってからまた、私への心身ともにの叔母の搾取がはじまった。

いつでも、どのような事でも叔母の要望に応えるのが当たり前になっている自分。言葉巧みに、こちらの心臓が血を流すような批判を受け取ってしまう自分。これらを手放さなければならないのは明白。

それには今まで表に出してこなかった諸々を、形は歪でも表に出して、痛みや苦しみまで執着し持ち続けていたそれらを、明るいところに出して整理整頓しなければ、その先の排泄廃棄にいたることは出来ないのだと覚悟した。

少しは踏み出せたと信じたい。自分を生きなければね。

 

今日もありがとう。

明日もよろしく。

 

yawarakayoshi

 

還暦からの人付き合い

還暦になって嬉しかったこと

①健康でこの年まで生きていた~

②子供の頃の記憶を俯瞰してみれる~

があって、他にもないか楽しみながら確認している。

 

特に ②子供の頃の記憶を俯瞰してみれる~ は、

周りの大人たちの言動や価値観に、左右されるのが致し方ない時期で

そのまま飲み込むように、自分に入り込んでしまった価値観も多し。

「排泄」すべきことに気が付かないでここまで来てしまったこと多し。

 

あの時の周りの大人たちは、今の私よりずっと若く幼かった。
今でも、その個性は変わらないけれど、あの時若かったんだよ。

 

今は高齢化社会の先頭にいて、それぞれの満足を求めているし

そこそこ満足している様子。

 

明らかに”黒”なことを、忖度してグレーだから大丈夫と自分に言い聞かせ

飲みこんだままにしていなくてよいのよ。だから、「排泄」しよう。

 

なんか身体が軽い。

 

今日もありがとう。

明日もよろしく。

 

yawarakayoshi

 

 

 

 

還暦のそのさき

人生百年時代

少子高齢化

人類のはじめてのことばかり。

正しさを探っても答えはない世界。

では、私はどうしたいのだろう?

 

人生終えるその時まで

  • 健康で清潔な生活をおくっている。
  • 自分を自分で養っている。
  • なにしろ機嫌がいい

こんな風でいたいなあ。

それには?と静かに考えていきたい。

ひとつひとつでいい。

 

今日もありがとう。

明日もよろしく。

 

yawarakayoshi

私の中のグレートマザー

今から数十年前、テレビをつけていたらたまたま始まったドキュメンタリー番組。

どこかの観光猿山を取材している”カメラマン”を追った番組でした。

そのカメラマンの注目していたのが、その大きな猿の集団で一番高齢の「メス猿」

ここから彼女のことを グレートマザー と呼びます。

<ご注意願います>かなり時間が経過した、たった一度の視聴の記憶で私オリジナルになっているかもしれません。

 

観光用に日中は餌付けされ、夕方には寝床である山に帰る大きな猿の群れ。

その中で、もう何年も自分では子供を産まなくなったけれど、母親が病気やケガで亡くなった孤児の子ザルを育てたり、一人前になる前の子ザルを分け隔てなく世話をやく グレートマザー。

彼女の周りにはいつも子ザルたちが遊び、背中に小さい赤ちゃん猿をのせた若いママ猿が、さも何か相談でもしているかの様子で一生懸命毛づくろいをしていたり、若い男猿の喧嘩も興奮が過ぎるようだと、グレートマザーが現れるだけで静かになったりもして、存在感がとても大きいのが見てとれた。みんなが毛づくろいをするので、高齢とは思えないほどの毛並みの”グレートマザー”

ボス猿ですら近くと通るとき、ほんの一瞬彼女を見る。幼いころ甘えさせてもらったのかもしれない。

 

晩秋の午後、スッと彼女が猿山から離れだした。

いつもは移動の時すら子ザルや若いサルがワイワイいるのに、誰もついていかない。

方向はいつもの寝床の山の方ではない。

そのうち粉雪が舞いだした。

まだ日はあって明るい。

冬支度がすんで葉をすっかり落とした明るい雑木林の下草の笹野藪で、以前から決まっていたかのように静かに腰をおろした。

カメラマンは、彼女に距離は取りつつも正面からカメラをかまえた。

彼女はカメラのレンズを通して真っすぐカメラマンの目を見て、そしてうずくまった。

降り出した粉雪が少しづつ激しくなり、彼女を包んで彼女のまあるい背中もわからなくなるほど、一面の雪になった。

 

映像のまま記憶に強く残っている物語。

脈略もなく、ふっと思い出す映像。

私は、いつのまにか彼女を”グレートマザー”と呼んでいた。

私は未だに彼女からなにも学べていません。

 

今日もありがとう。

明日もよろしく。

 

yawarakayoshi

 

還暦からの日々是好日

はじめまして。 yawarakayoshi と申します。

 

一生懸命ではあったけど、行き当たりばったりで還暦まできてしまいました。

そんな私ですが、還暦を迎えられたことに嬉しさを感じ、自分軸を意識してこれからを生きたいなあと数年前から「自分の棚卸」を始めていました。そこで気づいたのが、、

 

自分の書いたものが、読み返せない! でした。

 

これには諸々原因があることも気が付きましたが、頭の中でグルグル巡らせていては、整理がしきれない。さてどうしよう?と思ったときブログを試してみよう~と。

 

ですのでどなたかのお役に立つような内容でもなく、文章力にも問題あるものとおもいますが、うっかり覗かれた方にはどうか広い心でご容赦いただきたくお願い申し上げます。

 

今日もありがとう。

明日もよろしく。

 

yawarakayoshi