かこ diary

還暦からの『日々是好日』を探しています。

自分のやっかいな『癖』をならべてみる

①自分の意志よりまわりにあわせる 

私は子供がいない環境に生まれた。よって、大人の都合に合わせることが当たり前の子供に育った。特に、自己愛性パーソナリティ障害の気質が強い叔母との関係の中で、大人への”忖度”が得意な子供であった。

小学校低学年の3年間、叔母と二人で暮らしていた。年に3回ほど叔母の都合で、親戚に1~2週間預けられることがあった。いつもは徒歩10分の小学校へは一時間半ほどかけて電車でかよった。預けられるその家は小さな商店を営み1階が店舗、2階が住まいになっていて、お風呂は銭湯を利用していた。銭湯へは一人で通っていたが、その時忘れられない大きな気づきがあった。

今の銭湯といえば娯楽の要素が強いが、風呂なしアパートの多かった時代でもあり当時の銭湯は生活の一部としての要素が強かったように思う。なので、マナーや常識は必須の場所であった。

そこでチビの私は洗い場で隣のお姉さん(推定二十歳)の石鹸を落としてしまった。あわてて拾い上げ、お返しするとき私は言葉が出てこなかった。その色の白い華奢なお姉さんは静かで確りとした声で「こういう時は、ごめんなさいというのよ。」と言ってくれた。私は、ごめんなさいと頭をさげた。お姉さんは「大丈夫。」と答えてくれた。

その時気が付いたのは叔母や実母や実父は、日常の世の中の常識を私に伝えてはくれない、自分で気づき学ばねばということ。これは大人たちを非難するつもりは全く無く、なぜなら大人たちはとても忙しく、それは生活する生きていくのに必須の事で、私の存在は大人の邪魔になってはいけないというのがあったから。悪影響ばかりではないけれど、これで大人の動向を観察することが強化された。

 意識すべきは、事実と、それぞれの人が思う真実を、わけて考える思考。

 

②自分の意識を自分で認識しずらい

小学校に入って最初の作文、叔母が愉快そうに笑ったことの内容を題材にした。たまたま担任教諭が気に入りそれをクラスで読み上げた。それが人づてに叔母の耳に入り、叔母が髪を振乱して激怒した。プライベートをさらしたからと。それからだと思うのだが、私は自分で書き記したものを読み返すことが難しい。学校で必要な作業として、ノートづくりや卒業論文まで書くことは出来るが、それを読返すことをことが難しい。試験の当日までノートを友人に貸していても文句を言わないと重宝された。自分の試験勉強は教科書などを読返すことぐらい。自分の頭の中を整理したであろうノートは、書いた時の記憶をたどることぐらいだった。

大人になり、ノート術やマインドマップやら書籍をいくつも買い求め試してみるが、提出義務のあるものは書けるがそれを読返すことが出来ない。自分の頭の中の整理にと、手帳術をためしても最初のうちは作業的に書き進められるが、そのうちその手帳を開くことが出来なくなる。。

若いうちは勉強が嫌いな自分の特徴と思っていたが、いや、これは何かの恐れからくる症状ではと疑いだした。

頭の中でただ思考をグルグルさせているだけでは、壊れた洗濯機のようで、いつまでも洗濯物はきれいにならないと気が付いた。

 

③自分の望みが曖昧

子供のころから神社仏閣に手を合わせるとき自らのことは何も思い浮かばず、なんとなく「世界平和」を祈っていた。それを間違いとは思わないが、違和感は感じていた。

私の実の両親は目鼻立ちがはっきりしていて、弟や妹も小さい時から可愛らしい顔立ちだが、私は色は白いが腫れぼったい目、鼻の穴が正面から見える剛毛短髪の子豚顔。祖母はその頃あった、産院での新生児取り違えをだいぶ長い間疑っていて、小学校に入ってから徐々に目が二重になり、兄弟で並んでもおかしくない頃まで疑っていたと言っていた。叔母には毎日「子豚ちゃん」「おぶすチャン」といわれ自分でもそう思っていた。幼いころはスカートを穿いていても男子と見られ、16歳でもジーパンTシャツでは接客のプロにすら「立派なご子息様で」といわれ、女子として意識は薄かった。

実父が18歳で亡くなってから実母からあなたがお父さんと言われ、心優しい弟だけれど思春期に感情を持て余らせたときは怒鳴りつける役目をした。

16歳まで男子に間違えられていたのに、大学に入り校則もないので髪の毛を伸ばし放題にして多少の化粧をしたら、急に老けてみられるようになった。大学のクラス呑み会ではお店の定員さんが迷いなく、私の席に伝票をおいた。学びも経験も足りなすぎるにも関わらず、まわりからは大人として見られ、働きや役割が当然のように割当てられ、何とか実行するようになっていった。自己愛性パーソナリティ障害の叔母が、自ら離れていくまで(叔母自らが主役になりずらいほどに)必要と望まれることを実行してきた。さて、自分の望みは?と思ったら何も思いつかなかった。

還暦になり、「生涯自立」でいたい。と思った。他には思いつかないけど、それでいいと感謝した。

 

④他者の事にはすぐ動けるのに、自分だけの事には動けない

小学一年の頃、商売をしている叔母は夜仕事があるために私は一人で家にいた。夕方に食事を済ませ、叔母は仕事にでかける。私は本を読んだりテレビを観たりして、8時ころにはベッドに入っていたが、時には淋しさのために実家に電話をかけた。実家への電話のかけ方は、叔母が教えてくれたことだった。しかし、電話料金をみて頻繁に電話をかけていると知って、当時お付き合いをしている男性に叱られることとなった。

8畳間の上座に男性と叔母が並んで座り、私は下座の端に正座して座った。叔母は悲しそうに男性にしなだれかかり、その風景をテレビで見る時代劇のようだと記憶している。ひとしきり男性が、実母に頼る私の行動を叔母が寂しく感じるであろうこと、それを配慮できない私の愚かさを大きな良く通る声で私に言い聞かせ、最後に「はい!は」と私に有無を言わさず従うように話を締めくくった。

小学校低学年の3年間、近所に同級生が住んでいなかったこともあり、学校を終えてから遊ぶ友人はあまりいなかった。唯一家から少し離れたところの商店の娘さんがいて、何度か家を行き来したのだが、言葉が江戸弁のべらんめい調で私はカッコいい!と思ったが、叔母は下品だからと遊ぶことを禁じた。何度か誘いを断ると、誘われることも無くなった。

一人でいることが得意になってしまった子供は、たまにある他者との関わりには全て応えようとすることも得意になってしまった。それが叔母からの要望ばかりだったとしても。なので、叔母に限らず家族親族の何かには、早く行動すると評されるようになった。自分の「望み」は我儘・贅沢と考えるようになり薄く薄くなっていった。

還暦を迎えた現在、自分の「望み」は「生きること」に近いものと感じる。脳の中で拒絶的な反応を自覚するが、だましだましでも動いていかなければね。

 

⑤褒められたことを身体が否定する

10歳の頃、虫歯の治療のため歯医者に通った。初診から一人で通っていたために、待っている時間を持て余し、掲示しているポスターや冊子を繰返し読んでいた。お陰で一本の虫歯の治療を終える頃には、とても歯磨きが上手になっていたらしい。その年の小学校の健康診断で、歯の検診を受けたドクターにとても歯磨きが上手と褒められた。それを訊いていた教師にもその時皆の前で褒められた。それから朝夕の歯磨きの時に、自分の歯ブラシを持つのが嫌になった。歯磨きをしないのは気持ち悪いので、それまで触りたくもない(思春期にはいっていたから?)と思っていた父の歯ブラシで歯を磨くようになった。母に「汚いからやめなさい。」と云われるまで一か月ほど続いたと思う。

他にもいくつか同じようなエピソードを記憶しているが、それは私のいい加減な性格からくるものだと思っていたが、思い返すとそれだけではないかもしれない。

他者からの評価は、事実に即して適切なものもあれば、そうでないものもあることはわかってきた。評価というものを否定することではないけれど、自分を考えるにはそれは二次的三次的なもので、まるっと受け入れることも、肯定否定することも、しなくてもよいのだと自分の無意識に云い続けてあげようと思う。

 

先ずは、大まかな思考癖をならべた。

癖を解く入口くらいには立てたと思う。

まだアウトラインがボンヤリしている。

何もかも彩度の高いものにする必要はないかもしれないが、

自分の視界は、深呼吸して見渡せる景色にしていきたい。

 

今日もありがとう。

あしたもよろしく。

 

yawarakayoshi